前回、宇多田ヒカルさんの歌声で涙が止まらなくなったお話をしましたが、また違う年の大晦日の夜、私の心をもう一段階、深く、切なく揺さぶった物語がありました。
それは、愛媛県とべ動物園のホッキョクグマ、**「ピース」**のドキュメンタリーでした。
■ 「お母さん」が分からなくなった息子と、ピース🐾
ピースは母親から育児放棄され、飼育員の高市さんが手探りで育てたシロクマです。
私は、折れてしまったニャン吉と生活する中で、ある悲しみに押しつぶされていた時がありました。
それは、折れてから少しずつ記憶が無くなるように、ニャン吉が私を認識しなくなっていってしまったのです。
それはもしかしたら多動がより激しくなって、
母<外の刺激
だったのかもしれないのですが、行動としては、母親を見向きもせずに、興味のある遊具だったり、落ち葉だったり、そっちに全力疾走してしまうんです。
追いかける私の手を振り払って、自分の見ているものに常にまっしぐらです。
私が居なくてもお構い無し。
よく、いう事を聞かない二歳位のお子さんに、
「ママのいう事聞かないなら、置いていっちゃうよ!」
というセリフありますよね。
私も兄ワン助には何回か言ってしまったと思います。
そうすると、大抵のお子さんは
「やだぁ〜😭」
となって、ママに飛びついてきてくれます。
こんなありふれた光景が、ニャン吉には全く実現しません。
ニャン吉は私の言葉も分からないどころか、
置いていかれる、ママが居なくなる、という事が理解も出来ないし、ママなんて、全く目に入っていないんです。
「この子の脳から、『母親』という概念が消えてしまったんじゃないか」
「私はもう、この子にとっての『お母さん』と認識してもらえないのかもしれない」
その悲しみはニャン吉が「ママ」と言ってくれる様になった5歳位まで続きました。
でも、画面の中で母熊から育児放棄されて、母親の居ないピースが、だんだんと高市さんを母親のように慕い懐いていく様子を見て、幼い頃のニャン吉が重なって涙が溢れました。

■ 「シロクマ」ではなく、ひとつの「命」として💉
てんかんの発作と闘い、薬を飲み、高齢期に入ってもなお懸命に生きるピース。その姿は、シロクマというより、まるで一生懸命生きる人間そのものでした。
障害や病気と向き合いながら成長していくニャン吉と重なり、どんどん感情移入していきました。
■ 「ちゅっちゅっ」という口の動きに宿る記憶👶✨
一番胸が締め付けられたのは、ピースが大きくなってからも、寝ている時に赤ちゃんの頃のように「ちゅっちゅっ」と手を吸う仕草を見せることでした。
(お乳を吸う代わりに、高市さんの手を吸っていた仕草だったと記憶しています)
それは、今のニャン吉も全く同じです。
夜、眠っているニャン吉が、おっぱいを吸っていた頃のような口の動きをするのを見て、あ、ピースと同じだな、といつも思います。
「体が大きくなっても、心の奥底、無意識レベルで、赤ちゃんの頃感じたお母さんの温もりを覚えていてくれているのかな」
■ ピースが教えてくれた、愛おしい「一生」への覚悟😭
番組は、高齢期を迎え、不自由な体でも一歩ずつ進むピースの姿を映していました。
それを見た時、私はニャン吉のこれからの「一生」をそこに重ねて見てしまったんです。
いつかニャン吉も歳をとり、病気になり、天に召される日が来る。
私たちはその最期までそばにいてあげられないかもしれない。
いや、その可能性、ニャン吉を置いて先に逝く可能性の方が圧倒的に高い。
でも、ピースが今この瞬間を一生懸命生きているように、ニャン吉も「今」を全力で生きている。
大変な子。でも、愛おしくて、離れがたくて、大切な存在。
そして、ニャン吉を置いて先に逝かなければならない事がこんなにも悲しく、心配で、それはどうしても逃れられない。
一生を背負う覚悟はしてるけど、私は弱い人間なので、時々悲しくなってグラグラしてしまう。
背負えないとかじゃなくて、愛してしまったからこそ、いつか来る別れへの不安と悲しみが払拭できない。
未来を恐れずに生きるほど強くもなれない。
なので、
悲しい別れがある事は分かっていて、悲しみを抱えたまま、でも、今のニャン吉の輝きを見て、目に焼き付けたい、そんな感じなのです。
ピースの物語は、私に「どんな姿でも生きていてくれる尊さ」と、「悲しみを抱えながらも、今この瞬間を愛でる大切さ」を教えてくれました。


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